長坂聖マリヤ教会
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沿革 / 年表 / 創立50周年記念礼拝

† 2012年6月3日 創立50周年記念礼拝 説教

日本聖公会首座主教・北海道教区主教 ナタナエル植松誠

植松誠主教 本日、長坂聖マリヤ教会創立50周年記念礼拝にお招きをいただき、誠にありがとうございます。私は小学校5年生から高校卒業まで、この教会で過ごしました。私の故郷であるこの教会に、今、創立50周年の機会に里帰りをし、説教者として立たされていることに深い感慨を覚えます。最近、自分が歳をとってきたということをよく実感します。そして、私の人生のいろいろな場面で出会った方々のことを思い出すことがよくあります。中にはあまり意識してなかった人、あまり思い出したくない出会いや関わりなどもありますが、今、自分の来し方を振り返りますと、何だかんだと言いながらも、今の私の存在は、これらの方々との出会いの中で形作られ、少なからぬ影響を受け、祈られてきたその集大成であるとつくづく思わされます。

 この礼拝堂の裏が私の生活の場でした。ベッドが4つ置かれ、野瀬秀敏主教様から頼まれた2,3人の少年と共に、毎朝6時の聖餐式から始まる日々を過ごしました。数年経って、それらの少年たちがいなくなったあとは、そこにいろいろな人が入ってきて、いつも家族以外の人が一緒に住んでいました。牧師である私の父はそれらの人の素性や背景を一切私たちに言いませんでしたが、一緒に住むうちにそれらの人々のことがわかってきました。仕事のない人、家出してきた人、社会で問題を起こした人などでした。中には我が家に大いに迷惑をかける人もいて、私は腹を立てて父に詰め寄ったことがあります。「こんな人、追い出してしまえ」と言う私に、父は、「追い出すことは簡単だが、イエス様がこの人を愛して、十字架にかかってくださったことを思うと、とても追い出すことはできない」と答えたのを今もよく覚えています。多感な青年期、私にはそれが理解できず、綺麗事を言っているようにしか思えませんでした。教会から、キリスト教から遠ざかりたいと思って、長坂を離れて遠く大阪の大学に行った私でした。その私が、今主教となって、この礼拝堂にいることに私は胸が熱くなります。嬉しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、そして、自分の中で消してしまいたい過去のある部分など、それらのどれ一つ、無駄になることなく主は用いてくださり、恵みに変え、今の私にまで導いてくださったことを思い、感謝に堪えません。

入堂 私は司祭に叙任されて以来、「巡礼」を自分の信仰生活の大事な一部だと考え、時間を作っては巡礼の旅をしてきました。イスラエルのような聖地に限らず、アッシジやサンチャゴ・デ・コンポステッラ、またイギリス各地の修道院や大聖堂、教会も訪ねました。その度にいつも感動させられるのは、時間を超越した人々の篤い信仰です。大きな教会や大聖堂を訪れ、それらが数百年かけて建てられたということを聞きますと、何か信じられない「信仰の壮絶さ」を感じるのです。自分の生きている間には完成した姿は見られないことを百も承知で、それでも数百年先に完成する大聖堂を今から喜びつつ、祈りながら一つひとつ、石を積み上げていく人々の無理の無い信仰の歩みにただただ圧倒されてしまい、それらの建物の壁や土台の石をそうっと撫で、額を押し当て、それらの人々の信仰を想うのです。

 今、私は、長坂聖マリヤ教会の創立50周年のこの時、50年の歴史を持つこの教会に巡礼に訪れているような気がいたします。50年の歴史を持った教会を巡礼しながら、私は、この教会で信仰生活を送った数多くの人々に思いを馳せます。その内の多くの聖職・信徒はすでにこの世の生涯を終えて天の御国で安らいでおられます。また、この教会を通って、日本全国、また世界各地に散っていって、福音を宣教した方も多くおられることでしょう。今日、私たちの巡礼は、50年の時間と空間を超えて、「私たちの長坂聖マリヤ教会」という信仰共同体=家族の中を通り過ぎていった方々を思い起こすところから始めたいと思います。

 これらの聖職・信徒の方々は、それぞれがその時代にあって、主に召されて救いの恵みに与った方々です。彼らは自分が主キリストによって遣わされた教会、職場、家庭で信仰を生き、それを自分のものだけに留め置かずに、他の人々に伝えていきました。それは決して順風満帆な信仰生活ばかりでなく、様々な困難や試練の中で、悩み、落ち込んだりした先輩たちの姿もあったと思います。しかし、そのような時でも、その解決を彼らがどのようにキリストへの信仰の中で見出していったかを知る時に、私たちはこれら先輩たちの生き方から多くの励ましと希望を与えられます。

 北海道の札幌市内のある教会では、8月の第一日曜日に逝去者記念礼拝をすることになっています。その礼拝の中で、すでにこの世の生涯を終えて天に召されたその教会関係の逝去者の名前を牧師が読み上げます。200名にも上るこれらの逝去者の名前と逝去年月日を読むのに15分はかかります。それで、その前の教会委員会で、ある信徒が牧師に、「先生、逝去者の名前を読むのに時間がかかるので、先生の説教は短くしてください」と言ったそうです。「何と失礼な!」と牧師は当初憤慨しましたが、その週、よくよく考えてみると、逝去者の名前を読みあげるということは、実は、それだけで大変な説教であることに気付かされました。その教会の200名にも上る逝去者たち、その一人ひとりを主イエス様が、良き羊飼いとして、名前を呼んで招き入れ、緑の牧場に憩わせ、水辺に導き、迷い出た時には、やはり名前を呼んで探しに来てくださったという事実がそこにあります。英語でCALLING/コーリングとは、「召し」という意味と「呼ぶ」という意味があります。その教会の歴史の中で生きた200名の人々を主イエス様が一人ひとり名前を呼んで呼び出し、召してくださったということ。それは単に名前を列挙するという以上の意味があるのです。逝去者一覧表にある名前を一人ひとりゆっくり「読んで」いくのは、主がその一人ひとりの名前を「呼んで」くださって、愛し、導き、養ってくださったことを想起することなのです。しかも、その一人ひとりの信仰生活は、その人だけに留まらずに、家族や友人などにもいろいろな影響を与えていったことを考えますと、一人の逝去者の名前から限りなく広がっていく主の恵みの証しを結集したものこそが、その教会の宣教であり、現在の教会の姿なのではないかと思うのです。

 長坂聖マリヤ教会の50年の歩みの中で、私の知らない時、知らないところで、このような信仰の営みがあったこと、数多くの聖職・信徒がこのように主によって名前を呼ばれ、召されたこと、そしてその彼らが教会を思い、祈り、議論し、学び、自分に与えられている賜物を献げてきたことは、昔、石を一つひとつ積み上げて大聖堂を築いた名も知れぬ信仰の先輩たちと相通ずるものがあることに気付かされ、今私は、この長坂聖マリヤ教会の壁や土台の石をそうっと撫で、額を押し当てたくなります。

 2009年9月23日、私たちは日本聖公会宣教150周年を祝いました。裸足で宣教する、すなわち、日本聖公会が日本という地において、日本にいる人たちに、自分たちの言葉で、彼らにとっての福音を語ることの大切さをカンタベリー大主教はその説教の中で力説されました。「こぎ出せ、沖へ」という主題で私たちの153年目が始まっていますし、この教会としては創立50周年を迎えています。私たちの宣教とはどのようなものでしょうか。「宣教とは何か」とよく尋ねられますが、私は宣教とはとても単純なことだと思っています。簡単に言いますと、宣教とはキリストの福音を証しすること、そして、人々をキリストの愛と交わりにお招きすること、それに尽きてしまうと思います。自分の言葉で、自分の生き方で、生きざまでキリストを証しすることです。人の言葉ではなく自分の言葉で、み言葉を、イエス様の愛を、私への慈しみを、自分にとっての喜びを、希望を人々に語ることです。牧師任せではなく、教会の長老の信徒任せでもだめなのです。あなたがどのようにイエス様を、福音の喜びを伝えていくか、それに尽きる。私はいつもそのように思っています。宣教を語る時、現状の困難な問題の指摘や分析も必要かもしれませんが、それ以上に、自分にとって、また教会として今誇れること、嬉しいこと、希望や夢に目を向けることが大切ではないでしょうか。それは決して現実逃避ではなく、キリストの福音に根ざした私たちの信仰のあり方だと思います。

 私たちの前を歩んでいった先輩たち、この教会を思い遣り、祈り、働き、献げてきた聖職・信徒の方たちの信仰を想う時、彼らの信仰から、また、完成がはるか彼方であっても、一つひとつ確実に大聖堂のために石を積み上げ続けた、世界中の、名も知られぬ多くの人々の信仰から、いつも夢や希望を持ち続けるという信仰の核心を教えられるような気がします。なぜ、私たちはこのような夢や希望を持ち続けられるのでしょうか。それは、私たちの信仰が復活への希望というものに基づいているからです。

 私は毎年、イースターの頃、北海道で、酪農とじゃがいもの産地として有名な今金のインマヌエル教会を巡回します。それはこの農村の教会がとても大事にしている「種の祝福」の礼拝をするためです。その年に蒔く種、種籾、麦、豆、種芋、トウモロコシなどを信徒たちは持ってきて祭壇の前に供え、私が聖水をふって祝福の祈りを捧げます。私はこの「種の祝福式」に毎回とても大きな感動を覚えます。それはこれが私たちの復活の信仰と結びついているからです。長く厳しい北海道の冬はすべての生命の痕跡を消してしまい、この「種の祝福式」の時も、雪に覆われ凍った大地は一面死の世界のようです。何の希望も夢もそこには見られません。この死の世界の中で、農業に従事する信徒たちは、復活の主の生命が与えられることを信じて静かに待ちます。今の現実がどんなに暗くても、どんなに厳しくても、それが永遠に続くのではなく、主の溢れる生命と恵みが与えられ、秋には豊かな収穫が得られると信じて、今からその収穫の喜びを先取りしているのです。

 ゴルゴタの丘の彼方に復活があることをすでに知っている私たちには、いつも一条の光り、希望と夢があります。この希望と夢に目を向けつつ、順境の時も、逆境の時も、日々の小さな信仰の営みを忠実に続けていくことを大切にしたいものです。それが、私たちの信仰の先輩たちが、私たちに証ししてくださっていることではないでしょうか。

祝会のための手作りケーキ 長坂聖マリヤ教会の皆様、教会創立50周年、誠におめでとうございます。

 長坂聖マリヤ教会の上に、主の豊かな祝福がありますように。 アーメン


※ 長坂聖マリヤ教会の創立50周年記念礼拝は、2012年6月3日、日本聖公会首座主教・北海道教区主教植松誠師父を説教者に迎え、横浜教区主教三鍋裕師父による司式、清家智光司祭、眞野玄範執事による補式によって執り行われました。礼拝出席者は約70名でした。お祈りに覚えてくださった皆さま、また記念献金を献げてくださった皆さまに感謝を申し上げます。

< 長坂聖マリヤ教会 > 408-0021 山梨県北杜市長坂町長坂上条2056-11 電話 0551-32-2441 メール nagasaka.st.mary@gmail.com